2019年12月04日
1965-1975年-My Back Pages エピソードー1/1968年 僕は二十歳だった。
僕は二十歳だった。それが人生でもっとも美しいときだなんて誰にも言わせない。
J'avais vingt ans. Je ne laisserai personne dire que c'est le plus belle âge de la vie.
何もかもが若者を破滅させようとしている。
恋、思想、家族を失うこと、大人たちのなかに入ること。
この世界のなかで自分の場所を知るのはキツいものだ。
ポールニザン: アデンアラビア
病院でゆっくりベットでくつろいでいると 色々過去の思い出 が蘇る。
僕は福井の高校を卒業して京都の私立大学に入学した。学部は経済学部。
高校一年の時、剣道部に入部 次の年から女子が入部してきはじめた。
さらに次の年の 2年下の入部生の一人が佐々だった。
佐々が高校2年 僕が大学1年の時
夏のキャンプの肝試しがきっかけで彼女と付き合い始めた。
よくある話である。
大学2年の時 僕は学生運動を始めた。
その頃 佐々に振られて 京都の年上の女の人と付き合っていた。
京都弁がすごく魅力的なその人 よく喫茶店で長々と
おしゃべりをしたり、時にはお酒を飲んだりした。
雨の日に河原町でデモをしているところを彼女に発見され
”あなた、裸足でデモしてたわよ”と言われたことがある。
ぼくのそういったろころと 思想の話とかが刺激になったのかもしれない
その後 少し疎遠になったが、ばったり出町柳であって
近くのクラッシク喫茶で話をした
彼女は カメラの専門学校にいっていて
静かでシャイな年下の男の子に恋してる といっていた。
僕は学生運動が激しくなって来て それっきりになってしまった。
その大学2年の終わり 福井の喫茶店でバッタリと佐々に出逢った。
僕も彼女も連れがいたが 気を利かせて姿を消した
佐々は 京都の女子短大にうかって 春から京都に来るという
いろいろ話しているうちに 再燃 となりました
京都では佐々は女子寮に入っていました。
そのうち 彼女も学生運動に参加することになります。
僕の下宿は北賀茂にあり はなれの広い部屋でした。
下宿の大家さんは小柄で白髪の芯の強そうな人でした。
以前は看護師長をしていたそうで 何故か僕とは気が合ったようです。
ぼくは2度逮捕されています。
ある日、夕方下宿に戻る時 少し離れたところにパトカーが停まっていた。
部屋に戻ると、おばさんが僕を呼びに来ました。
座敷に案内されると テーブルの上に菓子箱をおいて若い男が座っていました
”君と同じ大学の卒業生で今は警察だがまだ慣れていないので色々教えて欲しい”
と切り出しました。勿論 きっぱりと断りましたがしつこく食い下がってきます。
おばさんは中立的なもの言いでしたが
本人がそういってるのだから と釘をさしてくれました。
その男 捨て台詞を吐いてあわてて逃げるように帰っていきました。
僕が卒業し下宿を引き払ってから 年下の仲良くしていた同じ下宿生に
おばさんは 懐かしがるように 僕のことをよく話していたと聞きました。
最初に逮捕されたのは 京大から祇園までのデモの時です。
デモ指揮をまかされ 集会のあと京大を出 百万遍交差点でジグザク行進
出町の交差点でもしっかりジグザク行進をし 河原町を南下する所から御池あたりまで
フランスデモに切り換えました。道路一杯に広がってゆっくりシュプレヒコールを叫びながら
開放的で楽しいデモでした。その時 暑くて 着ていた
真っ赤なシャツを脱ぎジーンズのポケットに押し込みました。
御池のあたりから機動隊の隊列が出て来たため4列縦隊に戻し指揮を交代しました。
四条河原町にさしかかる少し手前で赤いシャツを着ました。
そのとたん 機動隊が動き始め僕は歩道側に逃げ
柵にしがみつきましたが取り押さえられました。
当然ながら 誰も助けてはくれませんでした。 手錠をかけられパトカーで鴨川署へ
私服警官が京大からずっと平行してつけていて シャツを脱いでから見失ったようで
シャツを着たのが甘っかったと 今でも反省しています。
2度目に逮捕されたのは 大阪・伊丹
ベトナム戦争が激化し始めた1968年、反戦運動も世界的に激しくなってきました。
日本には多くの米軍基地があり北爆の飛行機は沖縄から飛び立っていました。
米軍の空母や艦船は佐世保等 日本の港に帰港し
燃料や食品、その他の物資を補給していました。
弾丸や物資の移動には夜間に在来線の鉄道が使われていました。
僕たちはベトナム戦争の前線基地として機能しているこれらを
阻止することで戦争にブレーキをかけようと活動していた
大阪伊丹空港の横に米軍のヘリコプター等の修理や
メンテナンスをしている民間の会社がありました。
再三、抗議デモや通告を繰り返しましたが無視されたため
会社へ突入することになりました。
夏、近くの大学構内からヘルメットに角材を持ち
最寄りの阪急電車の駅に向かいました
駅前商店街を抜ける時、店の人や、おばさんたちは逃げまどいました
駅に着き、切符を買って電車に乗り込みました
2~3両占拠したと思います。
すでに各駅に停車する度に駅前にはパトカーが停まっていました。
目的の駅に到着すると線路に降り
石を拾いボケットにねじ込みその会社を目指しました。
ゲートに着く頃には機動隊が出て来て囲い始めました
ゲートを乗り越え、中に待機していた機動隊としばらく小競り合いが続きました
指揮官の合図とともに機動隊がなだれ込んできました。
そこからは 訳解らず必死で身を守るしかありません。
ヘルメットは割られ、背中はぼこぼこに叩かれ、警棒でめった打ちにされた
目の前を血が飛び交っていたが
余程 はりつめていたのかまるでスローモーションのように
はっきりと 流れる血の筋が見えたのを憶えている。
その後、ひとりひとり ごぼう抜きにされ、アスファルトに叩き付けられた
手錠をはめられ、手錠ごと両手を上げられ、空いた腹をブーツで蹴られた。
結局。淀川署に入れられましたが夜は背中が痛くて
仰向けでは寝られずうつぶせでしばらく寝ていました。
毎日尋問のたびに完全黙秘してきましたが3日目くらいに入ってくるなり
XXXXーと僕の名前を得意げに呼びました
何日かして 朝一番呼び出されて部屋に入ると
検事が座っていて、その前におやじが座っていた。
僕の顔を見るなり 情けないと思ったのか涙を流し
”せめて自分の名前くらいは名乗ってくれ”と言われ
その後は名前以外を黙秘することになります。
留置場には色々な人がいました。夜中には売春婦も入ってきました。
その中に その筋では有名らしい 詐欺師 がいて 全体を仕切っていました。
彼は 僕に ”おまえ 名前なんちゅうんや?” と聞いて来たので”黙秘します”と答えると
”そうか モクヒ か じゃあこれから モクヒ君と呼ぶからな ” と笑いながら言いました
彼は尋問から帰ってくると必ずタバコ1本とマッチを持ち込んで
夜、看守がいない時にタバコを吸っていました
そのタバコを紐で結んで 下の房に降ろして 廻しのみをしていました。
見通しがいいように 2階の廊下も鉄柵になっていたためそれが可能でした
京都の留置場でもそうでしたが 一緒に入っている人達は皆 仲間意識が強く
いろいろ助けてもらいましたし、僕が出所するときは大きな声で”頑張れー”とか
”頑張るなー デモは後ろの方でやるんやぞ” とか応援されました。
それにしても京都の留置場の米は白米でおいしかったし
今じゃ考えられんが タバコを午前、午後 一本ずつ吸わせてくれたものです。
起訴が確定し大阪の留置場を後にして 大阪拘置所に移されました。
拘置所では小さな独房で 自殺防止のためか 金(きん)隠しのない便器
顔を洗う水道と うすい布団セットが置いてあり
壁には検閲済みのニュースを流すスピーカーがついていました。
朝早くに点呼。長い廊下をコツコツと歩き近づいてくる足音が聞こえてきます
皆 正座して 入り口の方を向き 大きな声で番号で答えます
昼間は寝ることが許されず 座っているしかありません
読む本もなく、ノートとペンもなく そんな時は夢想するしかありません
壁や床には 名前や落書きが細かく刻まれていて それを読んでいたりもします
運動を希望すると中庭のフェンスで囲まれた小さな運動場に案内されます
各フェンス内では数人がボール遊びをしていましたが
僕は政治犯なので一人 軽く体操をし 青空を仰ぎ見るしかありませんでした。
夜は食事が終わると 主だったニュースが流れ 後は寝るだけになります
となりの棟の屋上では 監視員が見回りをしています
小さな鉄格子の窓からは 遠くに梅田の鉄橋を渡る
阪急電車の明かりが霞んで見えます
日常のささやかな幸せのようなものが浮かんできます
ここを出たら 行き先は何処でもいいから旅に出よう できるだけ遠くに
そんな想いがふとよぎります。
ここの食事は最低でした。
アルマイトのぼこぼこの蓋付き容器にご飯が入っていましたが
炊いたごはんを詰めたものではなく
容器を並べて蒸し上げたようなベタッとしたかんじのごはんでした
上の方に平たい大きい麦がべったりと覆っていましたから
蓋をしたままひっくり返しトントンと叩き、底をゆっくりと引き抜き
上になった白ご飯から食べました
朝はこれにみそ汁だけ付いていますが 味噌なぞ殆ど入っておらず
キャベツの葉が1~2枚はいっているだけでした。
何日かして 保釈金が用意され ようやく出所することができました
ここまで一気に書いてきましたが長くなりますので
このエピソードー1 はここまでとし 次につづきます。
ここまで読んで下さってありがとう 感謝します。
それでは また お会いしましょう
J'avais vingt ans. Je ne laisserai personne dire que c'est le plus belle âge de la vie.
何もかもが若者を破滅させようとしている。
恋、思想、家族を失うこと、大人たちのなかに入ること。
この世界のなかで自分の場所を知るのはキツいものだ。
ポールニザン: アデンアラビア
病院でゆっくりベットでくつろいでいると 色々過去の思い出 が蘇る。
僕は福井の高校を卒業して京都の私立大学に入学した。学部は経済学部。
高校一年の時、剣道部に入部 次の年から女子が入部してきはじめた。
さらに次の年の 2年下の入部生の一人が佐々だった。
佐々が高校2年 僕が大学1年の時
夏のキャンプの肝試しがきっかけで彼女と付き合い始めた。
よくある話である。
大学2年の時 僕は学生運動を始めた。
その頃 佐々に振られて 京都の年上の女の人と付き合っていた。
京都弁がすごく魅力的なその人 よく喫茶店で長々と
おしゃべりをしたり、時にはお酒を飲んだりした。
雨の日に河原町でデモをしているところを彼女に発見され
”あなた、裸足でデモしてたわよ”と言われたことがある。
ぼくのそういったろころと 思想の話とかが刺激になったのかもしれない
その後 少し疎遠になったが、ばったり出町柳であって
近くのクラッシク喫茶で話をした
彼女は カメラの専門学校にいっていて
静かでシャイな年下の男の子に恋してる といっていた。
僕は学生運動が激しくなって来て それっきりになってしまった。
その大学2年の終わり 福井の喫茶店でバッタリと佐々に出逢った。
僕も彼女も連れがいたが 気を利かせて姿を消した
佐々は 京都の女子短大にうかって 春から京都に来るという
いろいろ話しているうちに 再燃 となりました
京都では佐々は女子寮に入っていました。
そのうち 彼女も学生運動に参加することになります。
僕の下宿は北賀茂にあり はなれの広い部屋でした。
下宿の大家さんは小柄で白髪の芯の強そうな人でした。
以前は看護師長をしていたそうで 何故か僕とは気が合ったようです。
ぼくは2度逮捕されています。
ある日、夕方下宿に戻る時 少し離れたところにパトカーが停まっていた。
部屋に戻ると、おばさんが僕を呼びに来ました。
座敷に案内されると テーブルの上に菓子箱をおいて若い男が座っていました
”君と同じ大学の卒業生で今は警察だがまだ慣れていないので色々教えて欲しい”
と切り出しました。勿論 きっぱりと断りましたがしつこく食い下がってきます。
おばさんは中立的なもの言いでしたが
本人がそういってるのだから と釘をさしてくれました。
その男 捨て台詞を吐いてあわてて逃げるように帰っていきました。
僕が卒業し下宿を引き払ってから 年下の仲良くしていた同じ下宿生に
おばさんは 懐かしがるように 僕のことをよく話していたと聞きました。
最初に逮捕されたのは 京大から祇園までのデモの時です。
デモ指揮をまかされ 集会のあと京大を出 百万遍交差点でジグザク行進
出町の交差点でもしっかりジグザク行進をし 河原町を南下する所から御池あたりまで
フランスデモに切り換えました。道路一杯に広がってゆっくりシュプレヒコールを叫びながら
開放的で楽しいデモでした。その時 暑くて 着ていた
真っ赤なシャツを脱ぎジーンズのポケットに押し込みました。
御池のあたりから機動隊の隊列が出て来たため4列縦隊に戻し指揮を交代しました。
四条河原町にさしかかる少し手前で赤いシャツを着ました。
そのとたん 機動隊が動き始め僕は歩道側に逃げ
柵にしがみつきましたが取り押さえられました。
当然ながら 誰も助けてはくれませんでした。 手錠をかけられパトカーで鴨川署へ
私服警官が京大からずっと平行してつけていて シャツを脱いでから見失ったようで
シャツを着たのが甘っかったと 今でも反省しています。
2度目に逮捕されたのは 大阪・伊丹
ベトナム戦争が激化し始めた1968年、反戦運動も世界的に激しくなってきました。
日本には多くの米軍基地があり北爆の飛行機は沖縄から飛び立っていました。
米軍の空母や艦船は佐世保等 日本の港に帰港し
燃料や食品、その他の物資を補給していました。
弾丸や物資の移動には夜間に在来線の鉄道が使われていました。
僕たちはベトナム戦争の前線基地として機能しているこれらを
阻止することで戦争にブレーキをかけようと活動していた
大阪伊丹空港の横に米軍のヘリコプター等の修理や
メンテナンスをしている民間の会社がありました。
再三、抗議デモや通告を繰り返しましたが無視されたため
会社へ突入することになりました。
夏、近くの大学構内からヘルメットに角材を持ち
最寄りの阪急電車の駅に向かいました
駅前商店街を抜ける時、店の人や、おばさんたちは逃げまどいました
駅に着き、切符を買って電車に乗り込みました
2~3両占拠したと思います。
すでに各駅に停車する度に駅前にはパトカーが停まっていました。
目的の駅に到着すると線路に降り
石を拾いボケットにねじ込みその会社を目指しました。
ゲートに着く頃には機動隊が出て来て囲い始めました
ゲートを乗り越え、中に待機していた機動隊としばらく小競り合いが続きました
指揮官の合図とともに機動隊がなだれ込んできました。
そこからは 訳解らず必死で身を守るしかありません。
ヘルメットは割られ、背中はぼこぼこに叩かれ、警棒でめった打ちにされた
目の前を血が飛び交っていたが
余程 はりつめていたのかまるでスローモーションのように
はっきりと 流れる血の筋が見えたのを憶えている。
その後、ひとりひとり ごぼう抜きにされ、アスファルトに叩き付けられた
手錠をはめられ、手錠ごと両手を上げられ、空いた腹をブーツで蹴られた。
結局。淀川署に入れられましたが夜は背中が痛くて
仰向けでは寝られずうつぶせでしばらく寝ていました。
毎日尋問のたびに完全黙秘してきましたが3日目くらいに入ってくるなり
XXXXーと僕の名前を得意げに呼びました
何日かして 朝一番呼び出されて部屋に入ると
検事が座っていて、その前におやじが座っていた。
僕の顔を見るなり 情けないと思ったのか涙を流し
”せめて自分の名前くらいは名乗ってくれ”と言われ
その後は名前以外を黙秘することになります。
留置場には色々な人がいました。夜中には売春婦も入ってきました。
その中に その筋では有名らしい 詐欺師 がいて 全体を仕切っていました。
彼は 僕に ”おまえ 名前なんちゅうんや?” と聞いて来たので”黙秘します”と答えると
”そうか モクヒ か じゃあこれから モクヒ君と呼ぶからな ” と笑いながら言いました
彼は尋問から帰ってくると必ずタバコ1本とマッチを持ち込んで
夜、看守がいない時にタバコを吸っていました
そのタバコを紐で結んで 下の房に降ろして 廻しのみをしていました。
見通しがいいように 2階の廊下も鉄柵になっていたためそれが可能でした
京都の留置場でもそうでしたが 一緒に入っている人達は皆 仲間意識が強く
いろいろ助けてもらいましたし、僕が出所するときは大きな声で”頑張れー”とか
”頑張るなー デモは後ろの方でやるんやぞ” とか応援されました。
それにしても京都の留置場の米は白米でおいしかったし
今じゃ考えられんが タバコを午前、午後 一本ずつ吸わせてくれたものです。
起訴が確定し大阪の留置場を後にして 大阪拘置所に移されました。
拘置所では小さな独房で 自殺防止のためか 金(きん)隠しのない便器
顔を洗う水道と うすい布団セットが置いてあり
壁には検閲済みのニュースを流すスピーカーがついていました。
朝早くに点呼。長い廊下をコツコツと歩き近づいてくる足音が聞こえてきます
皆 正座して 入り口の方を向き 大きな声で番号で答えます
昼間は寝ることが許されず 座っているしかありません
読む本もなく、ノートとペンもなく そんな時は夢想するしかありません
壁や床には 名前や落書きが細かく刻まれていて それを読んでいたりもします
運動を希望すると中庭のフェンスで囲まれた小さな運動場に案内されます
各フェンス内では数人がボール遊びをしていましたが
僕は政治犯なので一人 軽く体操をし 青空を仰ぎ見るしかありませんでした。
夜は食事が終わると 主だったニュースが流れ 後は寝るだけになります
となりの棟の屋上では 監視員が見回りをしています
小さな鉄格子の窓からは 遠くに梅田の鉄橋を渡る
阪急電車の明かりが霞んで見えます
日常のささやかな幸せのようなものが浮かんできます
ここを出たら 行き先は何処でもいいから旅に出よう できるだけ遠くに
そんな想いがふとよぎります。
ここの食事は最低でした。
アルマイトのぼこぼこの蓋付き容器にご飯が入っていましたが
炊いたごはんを詰めたものではなく
容器を並べて蒸し上げたようなベタッとしたかんじのごはんでした
上の方に平たい大きい麦がべったりと覆っていましたから
蓋をしたままひっくり返しトントンと叩き、底をゆっくりと引き抜き
上になった白ご飯から食べました
朝はこれにみそ汁だけ付いていますが 味噌なぞ殆ど入っておらず
キャベツの葉が1~2枚はいっているだけでした。
何日かして 保釈金が用意され ようやく出所することができました
ここまで一気に書いてきましたが長くなりますので
このエピソードー1 はここまでとし 次につづきます。
ここまで読んで下さってありがとう 感謝します。
それでは また お会いしましょう
Posted by hamabeat at 20:43│Comments(0)
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