1965-1975年:My Back Pages エピソードー2 /三里塚、10.21新宿

hamabeat

2020年01月05日 16:43

大学時代は東京によく行きました。

1967年だったかと思います。夜行列車で東京・法政大学へ

法政大学校内の たしか民青との戦いの助っ人で行ったと思います。

僕の大学もそうでしたが 日本共産党(日共)の青年組織である民青(民主青年同盟)

とは衝突が絶えませんでした。特に僕の大学では暁行動隊なる強力な組織があり

特に夜間は校内にいるのが危険な状態でした。

僕たちは反日共系 新左翼と呼ばれていて

アメリカにもソヴィエト・日本共産党にも反旗を翻していた。

法政大学にも民青が多くいたようです。

夜は大学の自治会ボックスで寝泊まりしましたが

結局 何事も無く、2~3日後に三里塚に向かいました。

成田空港建設阻止を強固に戦っていた反対同盟の農家へ行きました。

最初は社会党や共産党と共闘していたようですが彼らの裏切りに怒り

新左翼との共闘を決定した頃だと思います。

夕方到着し、それぞれ分かれて 各農家へ分宿となりました

一軒の農家に着くと笑顔で歓迎され 夕食をごちそうになり、お酒も頂きました。

その後お話をしましたが 農家のおじさん、おばさん、青年たちですが

政治的で過激な発言に驚かされました。自分達がひ弱に思えた程です。

夜はふかふかの布団で寝て 明くる朝は朝食後 

大きなおにぎりを持たせてくれました。

しっかり頑張って来てね  と激励され 集会広場へ向かいました。

青年行動隊のグループがヘルメットを被り、農具で武装し

激しくアジテーションをしてました。

それから僕たちのグループと一緒に広い畑を眺めながらデモを行いましたが

機動隊は結局現れず 平和的で牧歌的なデモで終わりました。

この年はまだしもでしたが 三里塚闘争は 

この後 激しく危険な戦いになっていったようです。


個人的にもよく東京には行きました

夜行バスで横浜へ。 友達の下宿へ転がり込み数日寝泊まりした

翌日から早朝最寄りの駅に行き、アルバイトの仕事をもらった

駅には手配師がいて 集まってくる日雇い労働者に仕事を割り当てていた

割り当てられた会社に行き、昼飯の弁当と日当をもらい 大型トラックに乗り込む

荷物の積み降ろしが仕事の内容だ

そんなある日 東京に行き仕事を済ませの帰り 

銀座だったと記憶してるがそこで降ろしてもらった

東京の 高校時代の剣道部の友人トオルの下宿に世話になる。

彼の部屋は2つの部屋に挟まれた真ん中の窓が一つもない部屋で

主に寝泊まり専用で使っていたみたいだった。

彼がアルバイトをしていた会社で僕も一緒に働いた。

会社は夜間はアルバイト学生に解放しているようで そこを寝泊まりの場所とした

昼は肉体労働のハードなバイトなので 夜は皆で飲み会が始まる

時には 近くの屋台でおいしいオデンをつまみに酒を飲んだ

その仲間のユウジと親しくなり 以後 京都と東京を結んで交流が始まる。

彼は現在 鳥取で写真館を経営していて 今は息子の代になってるようだ

その年は1967年だったと思う。10.21国際反戦デーが各地で毎年行われていたが

新宿がその中で最も大規模なデモが行われていた

ぼくは その日新宿へ向かった。電車の車内放送では盛んに

”新宿には向かわないで下さい”と繰り返されていた。

新宿に降りると 沢山の群衆が集まっていた。警官も沢山いて手荷物検査を行っていた。

そして  ”停まらないで下さい、移動して下さい”と叫んでいた

機動隊も出て来て そのうち群衆と小競り合いが始まった

暗くなってから高田馬場方面からヘルメットを被った学生のデモ隊が到着すると

待ってましたとばかり 群衆の拍手と叫び声が沸き起こった

それからは想像がつくでしょうが 勢いを得た群衆は機動隊と衝突しはじめた

放水車は孤立し 火を吹いていた なにしろ多勢に無勢で 機動隊が逃げ惑っていた

ぼくが 機動隊を追いかけたのは その時が初めてで最後でした

機動隊は逃げる時に催涙弾の水平撃ちをやります。ぼくは 腰に玉が当たりました

この弾は 20メートルの距離からまともに当たるとベニヤ板を打ち抜くといいます。

廻りの皆が駆け寄ってきましたが けがは無く済みました。

1968年の10.21新宿はさらに激しく騒乱罪が適用されました。


そのうち京都から佐々がやってきた。しかも 新幹線に乗ってだ

一緒に会社に寝泊まりし一緒に宴会を楽しんでいたが

さて 京都に帰る時になって ”帰りの汽車賃持ってるか?” と聞くと

”何言ってるの あなたアルバイトしてたんだから当てにして片道切符できたのに”ときた

ここでは 江戸っ子だい 宵越しの金は持たない  僕のバイト代は酒で消えていた。

結局 佐々の親戚の人にお金を借りにいって 二人で新幹線で帰った始末


京都岡崎に下宿している頃ロック喫茶で東京から来た若者に逢った

東京でロック喫茶を始めたいのでこちらのお店を視察に来たという

僕たちの下宿で数日寝泊まりをしあちこち廻って東京に帰っていった

それから何ヶ月か後に高円寺で  という名前のお店を出した

Rock Band Jefferson Airplane  が好きだから付けた名前だった

東京にいくとその店 をねぐらにしてあちこち廻った

それと 前のアルバイトで知り合った ユウジ のところにもよく泊まり 

彼とハルミさんにはずいぶん世話になった。

そのころ ユウジは 僕たちの岡崎のアパートに 東京から車でやってきた

4人くらいで来たと思う。やはり酒盛りをしながらしばらくは雑魚寝の日々だった


佐々は独りで あちこち行くのが好きで 熊本のコミューンにいったり

中津川のフォークジャンボリーに行ったり 

ジャック・エリオットのコンサートに行ったりしていた。

中津川には数日いて 帰って来てからしばらくすると 

そこで知り合った男たちが次々とあらわれた

僕の部屋でギターを弾いて 自作の唄を聞かせてくれたりしたが…….

河原町のロック喫茶のマスターもよく車できて おもいきりギターをかきならしだ

高校の同級生だったxxxxが最近 急に有名になりやがって 

俺をちっとも相手にしてくれん とか

ブツブツ文句をいいながらそそくさと帰っていった

その女性は 有名なシンガーソングライターだった

一緒にアルバイトをしていた秋田出身のビンさんもよく遊びにきたし

ぼくもよく彼の下宿へ遊びにいったり、泊まって帰ることも多かった

あまり頻繁にいくので 佐々が嫉妬したくらいだった

それから 次のエピソードで登場する予定だが 滋賀のテツさん

大阪の商社勤務で 時々遊びに来てあちこち飲みに連れて行ってくれた

この岡崎のアパートはいつも誰かが遊びに来ていた。


この岡崎時代 佐々は近くのジャスコの肉やさんでアルバイトをしていた

そのせいでおいしい肉にありつけた その後 あの有名な 一澤帆布 で仕事をしていた

大学時代に一緒に運動していた FK は京都中央市場で仕事をしていたので

よく生きのいい魚を持って来てくれたりしたので 食べるものは贅沢していたと思う

FKは姉のことで堺では世話になった、現在肺癌の治療中

今年の年賀状に ”余命宣告期間は過ぎたので只今おつり生存中” と書かれていた。

別れの準備 のブログで書いた 若くして亡くなった青森のREMともこのアパートで知り合いました。

この岡崎時代が最も多くの友達と交流した時代でした

一人一人を紹介しているページはありません


このあと 銀月アパート に移ります

僕のブログで最もアクセス数が多いのは 銀月アパート のブログです。

このアパートでは ここの幾人かの住人と友達になりました。

大阪にいるころ知り合った ボロ という若者が時々東京からやってきて寝泊まりしました

四条にあった  磔磔  というライブハウスでステージにあがり演奏しました

そのころ 延岡からギターひとつでやってきたマサヒロは数ヶ月一緒にくらし

僕と共に アルバイトをし、仲間たちと 同人誌を 手作りしました

26歳の頃 長く続いた裁判がようやく終わりました。

結果は 当然 有罪で執行猶予3年でした。

裁判が終わるまでは 関西圏にいなければならなかったのですが

ようやく縛りが解けて 単身 北海道へ約四ヶ月の旅に出ることになります。

その後 福井の友人 トオル に誘われて 

福井に帰り 初めて会社に入ることになります。

長くなるので エピソード2 はここまでとします。

では 皆さん 次回に続きます





関連記事